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あいだには不浄が存在する

インド特有の社会制度といえば、バラモンを頂点とするカースト制度。そのもととなっているのは、ヒンドゥー教の「浄・不浄」の概念である。もっとも「浄」なのがバラモンで、「不浄」が多くなるにつれて、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラと、階級が下がっていくという考え方である。この「浄・不浄」は、人間の階級だけでなく、なんと、食べ物にまである。たとえば、水で煮た料理よりも、油料理のほうが「浄」とされる。食べ物がどのていど「不浄」だと食べないのかは、その人のカーストによって変わる。高いカーストの人ほど「浄」とされるので、自分より「不浄」なものを避けようとすると、制約が多くなるのである。たとえば、人とのつきあいでは、自分より低いカーストの人は、自分より「不浄」と考えるので、いっしょに食事をしないし、肌をふれたり、結婚したりしてはいけないとされている。食事の場合も、カーストが高い人ほど、食べてはいけない食べ物の種類が多くなる。たとえばバラモン階級では、肉食が殺生に関わる不浄なものとされるところから、菜食主義者が多い。だれが料理をしたかについてもタブーがあり、自分より低いカーストの人がつくった料理は「不浄」とされる。そのため、インドの人は、自分と同じカーストか、自分より高いカーストの人がつくった料理しか食べない。食事のときには、必ず右手を用いるが、これも利き腕だからではなく、「浄・不浄」の概念から。右手が「浄」、左手が「不浄」とされるので、右手で食事をするのである。ちなみに左手が排泄の後始末として使われることは有名。

アメリカ的地方生活

アメリカという国は面白い。広いアメリカ大陸は地域ごとに気候も風土も異なるが、どこに行っても、これが「アメリカ」だというライフスタイルが必ずある。それは、厳しい自然に対し、人間が真正面からぶつかってそれを乗り越えようという、技術力をも含めたテクノロジー、そして荒々しい生活の中でも楽しみを忘れない楽観的なエンターテインメントだ。このふたつがある限り、アメリカ人はどんな所に行っても、同じライフスタイルを保てるのだ。といって、地方色がないどころか、むしろ強烈だ。そしてその地域の風土に根付いたスタイルで、合理的かつ人間的で個性豊かな街をつくる。「アメリカ的地方生活」とは、自然も風景も気候も違う場所に行って、「アメリカ」という国の多様さを体験してできる旅である。もう「アメリカに行った」という時代は終わった。これからは「アメリカの○○に行った」という「地域」や「地方」を指す時代なのだ。その意味で、ハワイに始まり東海岸のニューヨーク、西海岸のロサンゼルス、サンフランシスコを経て、日本人の「アメリカ旅行」はようやく本番を迎えたともいえる。「地方」といっても、大規膜なショッピングセンターや街の中心部に並ぶ店は、皆、私たちにもお馴染みのアメリカンブランドだ。そうした意味でも、日本人にとって、アメリカほど旅しやすく、しかも、まだまだその街の奥深い魅力を発見しきれていないのである。

奈良時代や平安時代に陸奥の国

奈良時代や平安時代に陸奥の国はほかの国に比べて図抜けた大国であった。まだ、十分に大和朝廷の権威を認めていなかった蝦夷たちに対抗するには、ある程度の自立性を持った強力な統治機構が必要だったからだろう。その中心になっていたのが、多賀城である。それに対して、現代の多賀城というべき存在なのが仙台である。もともと伊達藩六二万石の城下町だが、東北の中心都市というわけではなかった。明治になって東北経営の拠点として官公庁や東北帝国大学、第二高等学校のような学校が次々と設けられた。また、国の出先機関もほとんどすべて仙台となっている。九州の場合は福岡と熊本、中国だと広島と岡山といったように分散しているのと比べてもたいへんな優遇ぶりである。さらに明治政府は郊外の野蒜に大規模な港をつくろうとしたがこれは失敗した。しかし、その後も、新産業都市やテクノポリスといった地域開発プロジェクトにも必ず指定地域となり、東北での仙台の一人勝ちは際だっている。


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